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【第4話】出勤拒否

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あらすじ

消防署で働き始めて3年目、初めての異動先で与えられた仕事はそれまでと大きく違うものだった。

初めての仕事に少しずつやりがいを感じ始めていた一方で、同じような毎日に”物足りなさ”を感じ始める。

その気持ちを埋めるために、以前から興味のあった”バンド”を結成することを思いつく。

それから数年間、バンド活動に没頭するなかで大切な友人とかけがえのない経験を手に入れる。

このまま地元から遠く離れた街で働き続けることを信じて疑わなくなったある日、東日本大震災により地元の仙台が被災する。

このことをきっかけに、”地元を離れて生活をすること”に疑問を感じ始める。

しかし、決断できないまま数年の時が流れ、その間に僕は結婚し妻のお腹には新たな命が宿っていた。

そして、第一子の誕生を数カ月後に控えたある日、異動により救急隊への配置を命じられる。

救急隊時代

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2015年春、僕は救急隊になった。

消防隊と比べると救急隊の方が出場件数は多い。

一日中、出場しっぱなしということも少なくない。

自然と救急隊の3人は一緒に過ごす時間が多くなるため、普段からのコミュニケーションがとても大切だ。

それが、 災害現場でのチームワークにも大きく関わってくるのだ。

良い関係を作ることができれば、仕事中の肉体的・精神的な負担を減らすことにもなる。

平たくいえば、関係性によって当直の疲れ方が全然違う。


とはいえ、異動が決まったとき、僕はその点ではあまり心配していなかった。

もともと人と話をするのが好きということもあり、人との関係作りはそれなりにはできる自信があったのだ。

それに、 これまでに何度も人間関係で悩み、そのたびに乗り越えてきたという経験も自信になっていたと思う。


しかし、そう長く経たないうちにその自信は崩れ去ることになった。

結果からいえば、僕は異動先の人たちと良い関係性を作ることができなかった


異動の初日に僕が見たのは、そこにいない隊員の陰口をいう人たち。

そして、”指導”というには乱暴な言葉づかいと態度だった。

とはいえ、まだ会ったばかりの人を「こうだ」と決め付けるのには早すぎると思い、積極的にコミュニケーションを取りにいった。


「メンバーも変わったし、時間が経てば何か変わるかも」という淡い期待もしていた。

でも、本当は分かっていたはずだった。

こういうとき、期待どおりになったことはほとんどないのだ。


それからの数カ月間は一言でいうと”耐える日々”だった。

出勤するたびに待っているのは、何時間にもわたる先輩からの”指導”。

消防士として10年以上働いていても、救急隊員としては新人だ。

「言われるうちは幸せ、それもなくなったらお終い」だと自分に言い聞かせた。

それに、僕自身も ”求められた仕事ができていない”という負い目も感じていた。


・もっと仕事を覚えれば何かが変わる

・もっと話をすればこの人のことが理解できる


そんなことを期待しながら、とても長く感じる当直を過ごしつづけた。


期待どおりにはならないと分かっていた。

でも、光がなければ先の見えない暗闇を歩くことなんてできなかったのだ。

悪化する人間関係

jonathan-rados-Sbxt82CsMxA-unsplash数ヶ月が経つと毎当直の”指導”には仕事のことのみならず、人格否定も加わっていた。


僕の精神はすり減っていた。

すでに僕からコミュニケーションを取りに行くこともない。

人間関係は悪化していたのだ。

しかし、それでも今は耐えるしかなかった。

来月には子どもが生まれる。

投げ出すわけにはいかない。

その思いだけで出勤し続けていた。

と、そんなある当直の夜、胸ポケットに入れていたスマホが鳴った。

それは里帰り出産のため、一足先に仙台に帰省していた妻からの電話。

もう出産予定日は数日後に迫っていた。

もともと”この当直”が終われば仙台に帰る予定だ。

電話に出ると妻の苦しそうな声が聞こえた。

「陣痛きたみたい・・・」


事務所の時計を見るとすでに23時を越えている。

もう新幹線はない。

妻には「急いで仙台に向かう」と伝えて電話を切った。

明日の始発で向かうのが最短だろう。

しかし、始発に乗るためには今のうちに家に戻り準備をしなければならない。

すぐに上司に事情を話し、やや強引な形になってしまったが早退させてもらうことにした。


なんとか終電に間に合い、深夜1時過ぎに帰宅した僕は、数泊分の荷物をリュックに詰め込み布団に入った。

そして、子どもが生まれる期待や不安でほぼ眠れないまま迎えた朝5時、仙台に向かうため自宅をあとにした。

父になる

jordan-wozniak-xP_AGmeEa6s-unsplash仙台についた僕はすぐに病院へと向かった。

あと少しで病院に着くというとき、妻から電話がきた。

「まさか・・」と思い、恐る恐る電話に出ると、いつもの妻の声。

「陣痛おさまったから、いったん実家に戻ったよー」

・・・とりあえず、出産に間に合ったことに胸をなでおろし、そこからはのんびりと妻の実家に向かった。

陣痛の間隔が短くなってきたら病院に行くということだったため、しばらくは何も予定のない時間を過ごすことになった。

僕はこの時間を使って、今の自分の状況をあらためて見直すことにした。

職場から遠く離れているからか、いつもより客観的に自分の状況を見ることができたように思う。

そして、ぼんやりとだが一つの答えがでていた。

あとになって振り返れば、この時間が僕にとって大きな意味を持つことになったのだ。

それから本陣痛が来たのは、約半日後。

僕が仙台についてから1日半後のことだった。


陣痛の間隔が短くなり、そのたびに苦しそうにする妻を車に乗せて病院へと向かった。

病院についてから、さらにその間隔は短くなっていった。

しかし、その妻の横で僕にできることは何もない。

話には聞いていたが、 こういうとき男は本当に無力だと実感した。

僕にできるのはせいぜい、声をかけとマッサージくらい。

少しでも楽になるのならと思いながら、続けた。

そして、それが40時間以上も続いた。

難産だったのだ。

 

そんな長時間にも及ぶ戦いのすえ、とうとう長男が誕生した。

長男が出てきたときの妻の姿や子どもが生まれた感動やらで、気がつくと僕は涙でぐしゃぐしゃになっていた。

そんな滲んだ視界で子どもの顔を見ながら、 自分の中に”芯”のようなものができたのを感じていた。

その数日後、僕は仕事のためひとりで仙台を出発し自宅へと戻った。

これからまた”耐える日々”が待っていると思うと少し気は重かったが、もうそんなことは言っていられない。

それからは、これまで以上に気を引き締めて仕事に取り組んだ。


出産から一ヶ月ほど経ち、少しずつ仕事も覚えて救急隊員としての生活にも慣れ始めていた。

仕事での人間関係は相変わらずだが、今は”耐えるとき”だと自分を納得させていた。

しかし、それも長くは続かなかった。

その終わりは突然きたのだ。

そして、僕は仕事に行くのをやめた

patrick-perkins-8VurHsVsls4-unsplashきっかけは、ある朝の救急出場だった。

到着した現場で待っていたのは、大きな人だかり。

その中心には傷病者が横たわっていた。

その場で必要な処置だけ行い、救急車への収容を優先した。

そして救急車の閉めようとバックドアに手をかけたそのときだった。


僕は胸に鈍い衝撃を受けた。

よろめきながら、何が起きたのか分からず一瞬とまどった。

どうやら僕は車内から突き飛ばされたようだった。

顔を上げると、そこには”教育熱心”な先輩が立っていた。

そして、ものすごい顔でにらみながら言った。

「てめぇ、やる気がねぇならもう出てくんじゃねぇよ」

そのとき、僕の中で”何かが切れた”のを感じた。

どうやら今の僕の活動を見て何かを感じたようだった。

でも、特に今の活動で思い当たるものはない。

仮に本調子じゃないようにでも見えたのなら、それは間違いなく前日の夜中遅くまで続いた”指導”によるものだ。

それに、その内容にも疑問を抱えていた。

そこからどんな当直を過ごしたのか覚えていない。

覚えているのは、その当直を終えて家に帰ったあと、布団で幸せそうに眠る息子を見て胸が苦しくなったこと。

不甲斐なさや悔しさ・・色んな想いがこみ上げていた。

明日、いつものように出勤すれば、いつものように毎日が始まるだろう。

そしてこの先、何度も今日のような思いをするのだろう。

しかし、もうその選択肢を選ぶことはない。

僕は出産で仙台に帰っていた期間に、 ”自分の人生で大事にしたいことの優先順位” をつけていた。

そのなかで、” 今の生活を守るためにここで働き続けることはそれほど重要ではない”ことに気づいてしまったのだ。

そして、子どもが生まれたあの瞬間、僕にとって一番大事にしたいものがはっきりとした。

これが仙台で過ごした数日間の間に出した答えだった。

「なんでつらい思いをしてまで働いてるのか」

そのときの僕の答えは”給料のため”だった。

たしかに家族を守るためにはお金は必要だ。

でも、お金を稼ぐ方法は”消防士でいることだけではない”。

なにより、

今の状況が続けば近いうちに僕の心は壊れるだろう。

もうとっくに色んな意味で限界がきていたのだ。

 

だから、僕は出勤することをやめた。

今、僕が壊れるわけにはいかない。

 

抑えきれないほどの悔しさを感じながら、 この”耐える日々”から逃げることにしたのだ。

それが結果的に家族を守ることになるとを信じて。


→つづく

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