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【第3話】ターニングポイント

火災により瓦礫になった家屋
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あらすじ

高校を卒業し上京した僕は消防訓練センターへと入校した。

半年間の教育を終え、消防署に配属されたのちに待っていたのは期待し想像していたものとは違う世界だった。

働く意欲を失い一時的に仙台に帰省するが、旧知の友人との再会をきっかけに気持ちを新たにする。

それから2年後のある日、当直勤務を終え自宅で休んでいると一本の電話で起こされる。

それは上司からの異動の報せだった。

はじめての異動

2010年秋のある日、24時間の勤務を終えて自宅で休んでいると一本の電話で起こされた。

それは異動が決まったことを伝える電話だった。

 

どうやら次の異動先はこれまでの当直勤務とは違い、9時から17時の勤務で災害には出ない部署のようだった。

災害現場で活動できる部署を希望していたのだが、とおらなかったようだった。

予想もしていなかった部署への異動に、複雑な思いがこみ上げる。

個人の意向が反映されない異動に、 ”雇われの身”であるということを改めて感じた瞬間だった。

 

新たな部署で与えられた仕事は、消防署のホームページの更新と広報紙づくり。

今までとは大きく違う仕事の内容に戸惑いは感じつつも、時間とともに少しずつ新しいやりがいを感じ始めていた。

また、規則正しい生活ができるようになったことで身体はずいぶんと健康的になっていた。

しかし、その一方で心の中のどこかには、モヤモヤした感情が渦巻いていた。

 

毎日似たようなことの繰り返し。

「仕事だと割り切るべきだ」と思っても、日々強くなる「物足りなさ」をごまかすことはできなかった。

バンド活動に明け暮れる

ある日の仕事の帰り日、僕は近所の楽器店へと向かった。

当時、楽器店には掲示板が用意されていることが多かった。

そこにはバンドメンバーを募集するためのチラシが何枚も貼られていて、そのチラシを見て気になった人はそこに書かれた連絡先に連絡する、というためのものだ。

そして、僕がここに来た理由も”チラシを貼るため”だった。

 

そう、僕もバンドを組もうと思ったのだ。

新しいことを始めれば、何かしら刺激があるはず。

それに、このまま待っていても、きっと何も変わらない。

「物足りなさ」を感じ始めていた日常から抜け出すには、自分で動き始めるしかないと思ったのだ。

 

そして何より、 職場の人間関係とは違うコミュニティが欲しかった。

ここが地元で知り合いでもいるなら、友達に声をかけたりすればメンバーも集められただろう。

しかし、この街には仕事の知り合いしかいない。

当時はSNSもなかった。

バンドを組むには、貼り紙を出す方法しか思いつかなかったのだ。

 

数日もすると、その張り紙を見た何人かから連絡が来た。

さらに、その人が友達を誘ってくれたりといった幸運もあり、あっという間に4人編成のバンドを結成した。

僕のパートは高校生の時から続けていたギターだ。

 

その日以来、時間が許す限りバンド活動に打ち込んだ。

仕事が終わったらスタジオで練習し、家に帰ったら曲を作り、3〜4時間寝て仕事に向かう日々。

「物足りなさ」を感じる隙間もないほどに予定を詰めた。

それに、楽しいことが待っていると思うと仕事も頑張れた。

こうして生活の中心が”バンド”になっていった。

 

半年もするとライブハウスで週1〜2本のライブを行い、CDを作るためにレコーディングしたり、遠方への単発ツアーなども行うようになっていった。

そこには求めていた刺激もあったし、たくさんの仲間もできた。

 

バンドをしていると「プロになりたいの?」とよく聞かれたが、プロになることを目指してたわけではなかった。

”働きながらどこまでできるのか”が知りたかったのだ。

 

ただ、メンバー全員が同じ認識だったかというと、きっとそうではない。

その食い違いが生まれた原因は僕自身にあった。

 

僕には公務員という仕事があったからだ。

最初からバンドで夢を見なくても、食いっぱぐれることはない。

「プロにならずに、どこまでできるのか」というのは僕自身の都合でしかなかった。

しかし、そういったことを全て理解してくれた上で一緒に活動してくれたメンバーには本当に感謝している。

 

結果として、このバンドは3年ほどで解散したが、その間にできた人とのつながりや経験は本当にかけがえのないものになった。

とても3年とは思えない密度だった。

文字どおり”駆け抜けた”のだ。

それにこの先、一生の友人と思える人たちとの出会いもあった。

 

たくさん悩み、ケンカして、喜んだ一つ一つの時間が今の僕を作ってくれていると思っている。

ちなみに、バンドを解散してからもマメに連絡を取ったり、飲みに行ったりと関係は続いている。

そして、当時のことを振り返ったときに「あのときはホントに楽しかったなぁ」と言い合える関係が続いていることが本当に嬉しい。

 

少し恥ずかしいが、バンドの曲をここに載せておこうと思う。

このバンドで初めて作ったオリジナルの曲だ。

沢山の人たちとつながるきっかけを作ってくれた、思い入れのある曲だ。

たくさんの葛藤を抱えながら自己表現の方法を探して、もがいていた当時の僕らのために、もしよければ聴いてあげてほしい。

[ Desire ]

疑問の芽生え

「このまま、退職までここで消防士として働き続けるんだろうな。」

なんとなくそう思っていた。

 

公務員を辞めるなんて、あまりに非現実的なことだと思っていた。

だから、それが当たり前のことだと思っていた。

しかし、そんな考えはこの日を境に消えてしまった。

 

そのときは突然訪れた。

2011年3月11日14時46分

東日本大震災だ。

 

午後の仕事をひとつ片付けて更衣室で作業着に着替えているときのこと。

突然、ロッカーがガタガタ鳴りはじめたと思うと、次の瞬間には立っているのが困難なほど大きく揺れ始めた。

僕は大きく揺れるロッカーにぶつかりながら事務所へと戻り、情報収集のためにテレビを付けた。

 

そこに映し出されたのは、街が津波に飲み込まれていく様子。

それは、よく知る街並み・・・ 僕の地元、仙台の様子だった。

そして、沖から迫る津波の映像が映し出された。

その向かう先には、昔から馴染みのあった海沿いの街がある。

その光景を前に言葉を失った。

 

周りの職員が慌ただしく走り回るなか、僕は目の前の映像に現実感を感じられないまま、呆然と立っていた。

仙台の家族や友人に連絡をしても、電話はつながらずメールも送れない。

地元にいる両親や友人の無事を祈りながら、 遠く離れた場所で祈ることしかできない自分に、かつてない無力さと情けなさを感じていた。

 

家族の安否を確認することができたのは、地震発生から数日後・・。

家は壊滅したが、 幸いにも家族は無事 だった。

そのことに心の底から安堵する一方で、亡くなった方やその家族の方のことを想像すると、そんな自分に対して強い罪悪感と嫌悪感を感じた。

 

そして、この出来事をきっかけに僕自身の心にある変化が起きた。

 ”家族を地元に残し、遠く離れた場所で働きつづけていていいのだろうか”

この日以来、この疑問を抱えて生きていくことになったのだ。

結婚と第一子誕生

震災の翌年、僕はそれまで付き合っていた地元の幼馴染と結婚した。

「いつ、何が起きるかわからないから」という気持ちもあったと思う。

このタイミングでの結婚を決めたきっかけの一つに、震災が含まれていたことは確かだ。

 

それから数年が経ち、”震災からずっと抱え続けた疑問”に答えを出せないまま、僕は30歳を目前にしていた。

仙台に帰るか、帰らずに今の生活を続けるかの2択。

何度も”その疑問”と向き合う機会はあったはずなのに、そのたびに決断を先送りにしていた。

「優柔不断」と辞書で引いたら、真っ先に僕の名前が出てきそうだった。

 

そんなとき、妻のお腹に命を授かったことを知る。

待望の第一子だ。

 

その数カ月後、出産を目前に控えた時期に異動を告げられる。

次の異動先は救急隊。

希望していた部署ではなかったが、そもそも希望なんてとおらないと思っていた。

異動の回数を重ねたことで、それが組織で働くことだと考えるようになっていたのだ。

それよりも 数カ月後に生まれてくる子どものために頑張ろうという気持ちの方がはるかに強かった。

だから、与えられた環境で花を咲かすための努力をしようと思っていた。

 

しかし、現実はそう上手くはいかなかった。

 

僕はこの数カ月後、仕事に行くことをやめたのだ。

 

→つづく

【第4話】出勤拒否

 

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